(2001年9月の『スパルタシスト』#24の 「女性と革命」に収められた記事です)
タリバン:帝国主義による 反ソ連戦争のむごたらしい結果
アフガニスタン: イスラム反動は 女性を奴隷にした
1988年にみなさんがアフガニスタンにいたと考えてみよう。当時、15,000人の女性が兵士や司令官として軍隊に所属し、245,000人の女性労働者が存在していた。カブール大学では、医者の40%と教師の60%が女性であった。教育機関には440,000人の女子学生が入学していたし、さらに80,000人が読み書き課程に参加していた。全アフガニスタン女性評議会という組織には150,000人のメンバーがいた。アフガニスタンの歴史上初めて、都市では洋服が普段着となり、ベールと従属からある程度自由になっていた。
こうした状況を可能にしたものは何か。それはソ連が10万人の兵士を派遣したことである。1979年12月に、左翼民族主義の親ソビエト政府に反対するムジャヘディンの反乱を阻止するために、ソ連は10万人の兵士を主にソビエト中央アジアから進攻させた。我々の党は当時はっきりと次のように声明した。「アフガニスタンで赤軍を歓迎せよ!アフガン人民に十月革命の社会的な獲得物を拡大せよ!」 我々は、ソ連がスターリン主義の官僚層によって堕落させられているとは言え、いまだ労働者国家として存続していること、そして特に女性と歴史的に遅れたイスラムのソビエト中央アジアの人々のためにプロレタリア十月革命の歴史的獲得物を具体化し続けていることを明らかにした。赤軍が介入した数週間後に、iSt(現在は国際共産主義者同盟)は、「ソ連を防衛せよ!」「赤軍に勝利を!」というスローガンに基づいて国際的なデモを行った。
1989年の初めに、ソ連の軍隊がアフガニスタンから撤退を完了した結果、アフガンの労働者、女性、左翼主義者は血まみれの攻撃に曝される状況に陥った。我々はこの裏切りを激しく非難した。帝国主義と妥協するために、クレムリンのスターリン主義者は、何十万ものアフガン人をCIAに資金援助されたムラーと封建地主と部族支配者に売り渡した。その結果、信仰を受け入れない人々は、拷問され、生きたまま皮膚をはがされ、首をはねられ、手足をばらばらにされた。赤軍が撤退した後、アフガン大衆の必死の闘争に連帯するために、1989年の2月、我々はアフガン政府に正式に手紙を出した。その内容は、「女性の読む権利、ベールからの解放、ムラーと地主の専制からの解放、医療ケアの導入、全ての人への教育の権利を防衛するため、死ぬまで戦い抜く国際部隊を組織する」というものであった。
この提案は拒否されたが、アフガン政府の要求によって、パルチザン・ディフェンスコミティ(PDC)は2ヶ月間資金を集めた。PDCは、階級闘争に基づく合法的で社会的な防衛組織であり、その政治的見解はスパルタシスト・日本グループと一致している。もちろんこのキャンペーンにPDC/日本も参加し、ジャララバードでのムジャへディンの全面的な攻撃による市民の被害者を救済するため資金を集めた。ジャララバードはCIAのゲリラ基地から一番近いアフガンの町であり、そこではムジャへディンの攻撃をある程度敗北させることができた。
1992年から1996年まで、反動的なイスラムのムジャへディンによる分派闘争で、色々な恐ろしい「連合」政府が生まれた。これらの政府の政策は、飢饉と荒廃を引き起こした。そして1996年にアフガンの首都がタリバンの手に落ちた。タリバンは、手始めに、元大統領でソ連の同盟者ナジブラを逮捕した。彼は去勢され、それから絞首刑にされて3日間カブールの中心部に吊るされた。タリバンの殺人鬼たちは、社会進歩のいかなる痕跡に対しても血まみれの復讐を加え続けた。結局、米国に支援されCIAに資金援助された人殺しムジャへディンが1992年に政権を取り、その反動的な社会的プログラムをタリバンが達成したのである。反共主義こそ帝国主義とアフガニスタンのムラーを結びつけるものである。
現在、タリバンの残忍で反動的な政権の下では、女性は男性の親せきが一緒でないと外出できない。頭から足の先までを覆うブルカと呼ばれる着衣を身に付けなければならない。ブルカはわずか3インチ四方の見る場所が付いているが、そこにも深い網目がほどこしてある。1979年ソ連が介入する前に我々は言った。「アフガン女性には太陽が当らない。」 これは文字通り事実である。女性はベールの中から太陽を見ることができない。彼女たちはブルカの中でほこりを吸う。その結果、ソ連が介入する前のように、再び高い水準で結核の感染に導くことになる。
ベールに包まれた状態は進歩的でも「反帝国主義」でも全くない。あるリベラルの人たちは、古風で趣のある文化的特徴だと思っているが、それも大間違いである。しかしこの抑圧を理解するのに共産主義者である必要はない。ベールは、女性が男性に従属していることの物理的シンボルであり、また男性の下に無理やり置くという身体的なシンボルである。花嫁の値段とベールは物理的な女性の抑圧の具体的な現われである。現在アフガニスタンでは、女性は経済的社会的法律的に財産である。彼女たちは、家族という抑圧機関の中で、従属的な地位に陥っている。
女性は完全に隔離され、外から見られないように家の窓は黒いペンキで塗られる。これはプルダと呼ばれている。気付かれることのないように音のしない靴をはかねばならない。静かに話さなければならず、笑ってはいけない。学校に出席することも禁止されている。タリバンが出した法令によると、家の外で女性が働くことも禁止されている。これは、アフガニスタンの30,000の未亡人にとって、死活にかかわる問題である。彼女たちが家族のための唯一の扶養者だからである。女性は本質的に医療サービスを受けることができない。なぜなら僅かな女性の医療労働者だけが医療を行うことが許されており、男性の医師が女性に触れることが禁止されているからである。従って数えきれない無意味な死亡が増え続けている。
「徳の促進と悪徳の予防局」というタリバン政府機関の青年悪漢たちが町を巡回する。そして女性が足首か手首を見せる違反に対して、彼らは、日常的に金属のケーブル線や壊れた車のアテンナを使って、彼女たちを残忍にたたくのである。意気消沈が広がっており、女性の自殺率が目立って増大している。女性が主要なタリバンの野蛮な標的であるが、女性だけとは限らない。カブールのサッカー場では、泥棒が手足を切断されたり、女性がむちで打たれたり石投げの刑で殺されたりするとき、何千人もの男性が喝采を送る。タリバンによる最も異様な死刑方法は同性愛に対してである。彼らは、まず部分的に土に埋められ、それからブルトーザーで運ばれたレンガ壁が彼らを押しつぶすのである。
ソ連の防衛と第二次冷戦
アフガニスタンの女性にとって、信じられない最悪の状況になってしまった原因は何か? 赤軍の介入を通じてのみ、アフガニスタンというとても遅れた国で社会解放の可能性があったのに、なぜほとんどの左翼とフェミニスト団体はこの介入に反対したのか?1970年代後半から90年代前半にアフガニスタンで内戦が起こった時に、現代史の例外として、女性の権利が中心的な問題となった。アフガンの原理主義者に虐殺されたベールをとった女性の流した血の幾分かは、アフガニスタンで米帝国主義による反ソビエトの汚い戦争を支持した国際的な左翼とフェミニスト組織の手によっているのである。こうした組織は、今アフガンの女性に加えられている恐怖の状況を作り出したということに一部分貢献したのである。
1979年のソ連赤軍の介入の起源は、「四月革命」が起こった1978年を見ることが必要である。その時ソ連に支持された左翼民族主義のアフガニスタン人民民主党が権力を取った。アフガニスタン人民民主党は、教育を受けたプチブルジョア、教師、学生、ソ連で訓練された軍将校を基盤にしていた。彼らの多くはソ連で教育され、そこで彼らは中央アジアの同一民族の進歩を見たのである。その経験に基づき、自分達の遅れた国の状況を直接比較することで、プチブルジョア層の多くが目立った近代化を打ち出し始めた。アフガニスタン人民民主党が権力を取った時、西洋のマスコミは「共産主義のクーデター」と書いた。それは実際、主要に軍を基盤にした左翼将校のクーデターであった。
当時アフガニスタンは、地球上で最も原始的で伝統に束縛された国の一つであった。1978年には、たった35,000人だけが製造業に雇われ、全体の人口は2千万ぐらいであった。生産労働者の数字は、イスラム教の聖職者によって減らされた。250,000人ぐらいのムラーが存在し、膨大な寄生的カストがとても貧しい人々の血を吸い取った。実質上産業は存在しなかった。鉄道路線もなく、高速道路は少なく、衛生施設は原始的なものであり、栄養不良が広がっていた。平均寿命は40歳であり、幼児死亡率は少なくとも25%で、子供の半数は5歳未満で死亡した。文盲率は、男性で90%以上、女性の場合は98%であった。わずかに西洋化された都市の中間階級の女性を除いて、ほとんどの女性は、花嫁の値段制度に基づき財産のように売られ、投獄されたかのようにベールを着てプルダに閉じ込められた。ほとんどの人々が、遊牧的な部族で暮らすか貧しい農民として泥の村で生活していた。その生活は数世紀前の生活ぶりとほとんど違わなかった。
アフガニスタン人民民主党は、イスラムを否定しなかったが、この国に世俗的で進歩的イメージを与えようとした。最も人気のあった政策は、貧しい土地を持たない農民が強力な金貸しに支払う借金を取り消したことである。地主と部族支配者は、耕作地の42%とそれに関連した灌漑制度を支配していた。人民民主党が完全な農地改革綱領を提案していたが、地主と部族支配者は、直ちに大規模で反動的な反乱と結びついた経済妨害とテロでこれを阻止した。
ムラーを狂乱させ武器を取らせたものは、政府が制限付きではあったが女性に対して平等の政策を導入したことである。つまり、花嫁の値段を名目上引き下げ、少女のために義務教育を取り入れ、成人女性が自発的に読み書きできる課程を導入したことである。1980年2月に『ニューヨーク・タイムス』でさえ次のように認めた。「カブールの革命的な政府が女性のために新しい権利を打ち出したことが、東アフガニスタンでは正統派モスリムの男性に武器を取るよう強いた。」 部族主義と封建主義との間の社会発展のなかで、アフガニスタン人民民主党が追求した最低限の改良に向けた社会的基盤でさえも存在しなかった。ましてや労働者革命の基盤もなかったのである。
家族制度は社会制度の要求に従って異なる形態を取る。この点は空想的社会主義者フーリエが最も雄弁に語っている。マルクスはしばしば好んでフーリエを引用した。それは、いかなる特定の社会における女性の身分も、人類の解放の一般的水準を反映するというものである。女性はその父の取り引き手段であり夫の財産であった。男性は財産を管理し継承する権利を持っている。地域の法律のほとんどが、男性が結婚している場合のみ、男性に土地と水を使う権利への接近手段を与えている。もし妻が一人以上なら、より多くの土地と水を貰うことができる。他方、結婚することはとても高価(花嫁の値段のため)なので、貧しい男性は結婚できなかった。ある男性は妻を手にいれるため誘拐したり強姦したりした。
1978年から79年にかけて、世界中でそしてこの地域で多くのことが起こった。米国に支持されたシャーが打倒された後、イランはほとんど完全に混乱状態に陥った。米国の航空母艦がアラビア海に展開していた。ソ連と同盟したカブール政府は、反動的なイスラムの聖戦によって脅かされた。ソ連の最高指令部はこうしたことを単に傍観していたのである。
米国はイランで行き詰まっていた。その状況を見たソ連のクレムリン官僚は、アフガンのムラーと部族支配者の反乱を鎮圧する機会をとらえた。そしてアフガニスタンに何千もの赤軍兵士を展開し、さらにその過程でイランの東側面に数百マイルの防衛地域を拡大した。ソ連は、正しくも自身の国境で敵対するイスラム原理主義政府を心配した。いわゆる「ソビエトの拡張主義」に対する激しい非難を通じて、民主党大統領カーターは、ソ連に対して第二次冷戦を開始した。1950年代の第一次冷戦のように、この反ソビエト戦争推進には軍事費の大規模な増大が伴った。同時にCIAを通じて、数百万ドルが反動的なイスラムの原理主義者に流れ始めたのである。
長びく内戦はその地域の歴史において決定的な事件となった。ソビエトの介入の敵対者たちが、「アフガンの民族自決権」とか「踏みにじられたアフガン民族の権利」について愚痴をこぼした時に、我々は、実際にはアフガン民族は存在しないと指摘した。我々がこれを発見したわけではない。歴史家のルイヂュプレは、1980年に『アフガニスタン』という本の中で、「アフガニスタンは人工的な国である。それは、19世紀に、イギリスとロシアの緩衝国として、諸部族王国から創り出された」と述べた。いかなる共通言語も共通国籍も存在しなかった。アフガニスタンは多くの異なる国籍、部族、民族グループそして言語から構成されていた。その言語には、パシュツー語、ウズベク語、トルクメン語、バルチ語などがあった。
革命的なマルクス主義に対する左翼対抗者
革命的なマルクス主義の立場に立つと主張する全ての組織がアフガニスタンをめぐって試された。つまりソ連の防衛に賛成か否か? 帝国主義に支援された反革命を支持するか否か? ベール、社会からの孤立、文盲からの女性の解放に向けた戦いに賛成か否か? 革命的なマルクス主義者にとって、この戦争について何ら複雑なことや曖昧なことはない。ソビエト軍隊と左翼民族主義同盟者は、CIAに支持された反共で反民主主義の地主、金貸し、部族長、ムラーの混成部隊と戦った。この者たちは大衆の文盲や女性の従属を温存してきた。あらゆる急進的左翼はソビエト赤軍と完全に連帯するべきであった。しかし実際にはそうではなかった。
反共産主義とブルジョア民族主義に毒されたこうした左翼は、外から押し付けられまた初めから官僚主義的に歪曲されているとはいえ、ボルシェビキ革命後のソビエト中央アジアの転化のような社会革命が起きれば、アフガン大衆にとって巨大な解放的影響を持つだろうということを拒否した。ソビエト中央アジアとアフガニスタンの間の社会進歩と経済発展における違いは、数十年間ではなく数世紀にも及ぶのである。
日本の左翼もまたソ連邦の防衛を望まず、さらに彼らは赤軍に反対した。日本共産党は、よくソ連と米国の両方が悪いと述べている。その上、日本は「平和憲法」に基づいて軍事ブロックに入ってはならないと語り、中立であることを要求してきた。しかしレーニンが言ったように、資本主義社会においては、中立という立場は大きな幻想である。一方の側を選ばなければならない。結局、アフガン人民が攻撃されているなかで、日本共産党は「自決権」に最もこだわったのである。前述したように、アフガニスタンという民族は存在しないので、「自決権」は適用できない。日本共産党は、実際にソ連論に対して屈服してしまった。彼らは、帝国主義者を支持するために「民主主義」という口実を与えたのである。
日本革命的共産主義者同盟(『かけはし』グループ)は、1980年1月にソ連を防衛せよと書いた。彼らは、最初正しくも、ベールを取り除ぞき、読み書きを可能にする課程を導入するため、ソ連と赤軍を防衛する立場に立った。ところがこの防衛の問題をめぐって対立が起き、2ヶ月のうちに、赤軍の介入に反対する立場を取り、赤軍はアフガニスタンから撤退せよと呼びかけたのである。ではなぜ彼らはその立場を変えたのか?日本帝国主義は単に何もやってないわけではない。日本帝国主義は、ソ連を粉砕するという米帝国主義と同じ利害を持っていた。具体的には、大平政府はソ連に打撃をあたえる手段として、ベトナムへの援助を中止した。そしてパキスタンのムジャヘディンが制圧している地域への開発援助を増大したのである。
もちろん『かけはし』が赤軍に反対する決議を行った時に、多くの沢山の口実を作った。あるメンバーは、一旦赤軍が武器を渡しそれから撤退すべきという意見を述べた。また他のメンバーは、赤軍とそのアフガンの支持者がソ連に撤退し、そこで組織再編をするべきだという意見を述べた。現在の指導者の一人平井は、その時、赤軍を支持することとスターリニスト官僚を政治的に支持することとを同一視した。実際にトロツキストにとって、赤軍を防衛することとスターリニスト官僚を政治的に支持することとは全然違うことである。トロツキストは、労働者政治革命のなかでスターリン主義の官僚を打倒するよう呼びかけている。
結局、帝国主義の攻撃に対してソ連を防衛するということは、自国ブルジョアジーと対決しなければならないことを意味する。現在もそうだが、『かけはし』は自国ブルジョアジーに対して闘いたくないのである。だからこそ彼らはアフガニスタンで赤軍を防衛できないのである。
マルクス主義対フェミニズム
マルクス主義とフェミニズムの間には歴史的に大きな違いがある。フェミニスト団体は女性の状態を改善したいと望んでいるのだから、マルクス主義とフェミニストの違いを述べてみたい。マルクス主義者による女性の抑圧の理解は、私有財産制度の中で女性が従属的立場に置かれているというものである。フェミニズムの見方は正反対である。フェミニズムは基本的にブルジョアイデオロギーの変種であり、主要な社会の区分は性であって、階級ではないという点を打ち出す。フェミニストは、女性の抑圧を男性優位から出てくる悪い思想や政治と見なす。つまり、階級に分裂した社会に不可分のものとは見なさないのである。ほとんどのフェミニストは、たとえ結果がどんなに女性に有利であっても、ソ連に対して米帝国主義を支持した。
自由主義のフェミニストと改良主義者は、帝国主義が悪い政策であって、大衆的な圧力を通じて改良することができるという幻想を与える。レーニンが規定したように、帝国主義は、搾取制度に基づいて成長したものであり、「資本主義の最高段階」である。「人権」のために血に染まった米帝国主義やNATOや国連に介入を呼びかけることは、血に染まった帝国主義体制に幻想を創り出す危険な罠である。帝国主義体制は、世界中で資本主義の搾取と大規模な貧困と民族抑圧を強化している。
しかしソビエト官僚は、勝利するために戦わなかったのである。彼らは戦争の初めから、帝国主義との取り引き材料として、常に撤退の可能性の扉を開けておいたのである。しかしながら1984年までにはソビエトとアフガニスタン人民民主党の部隊は、実際にこの戦争に勝利していた。CIAの「聖戦勇士」はばらばらになり士気をくじかれていた。アフガン政府の控えめな改良は、アフガニスタン人民民主党が最初に提案した控えめな綱領よりも規模が縮小されていたにも拘わらず、農村では支持を獲得していた。
ゴルバチョフが1985年に権力に就いた時、彼はソ連の経済停滞に直面していた。ソ連経済は、レーガン大統領の下で加速した米国からの軍事的圧迫の増大で悪化していた。ゴルバチョフは一連の政策の変更を実行した。それは、ソビエト経済の「改革」(ペレストロイカ)、ソビエト社会の「開放」(グラスノスチ)、国際問題における「新思考」などである。「新思考」とは、結局、国際的規模でのソ連の撤退であった。レーガンと「平和」条約を締結するという希望のなかでこうした降伏戦略の一部として、1986年11月にゴルバチョフの政治局は、2年以内にアフガニスタンを放棄すると決定したのである。 赤軍の撤退は、アフガンとソ連国民にとって、冷酷な裏切りであった。アフガニスタンでのゴルバチョフの裏切り的な撤退は、ソ連の青年世代全体を消耗させた。彼らは、アフガニスタンで国際主義的任務を果たしていた。
我々はアフガン戦争のソビエト退役軍人に敬意を表する。彼らは、実際彼ら自身を革命的な国際主義の戦士と見なした。ソビエト官僚がアフガン人民の流血を代償にして、帝国主義の目的を優先した結果、ソ連全体を反革命によって破壊しようとする帝国主義者の欲求に刺激を与えた。この動きは、ソ連国内で、親資本主義勢力を強めることになった。そして赤軍の撤退は最終的なソ連自身の崩壊に直接に結び付いたのである。ソ連の崩壊は、世界中の労働者階級と被抑圧者にとって、歴史的な敗北である。アフガニスタンヘの介入は、約60年に亘るスターリニストの抑圧、嘘、裏切りの後でさえ、ソビエト国家の集産化された基盤と頂点に居座る寄生的官僚との間の矛盾を執拗に証明した。それは、堕落した労働者国家ソ連邦を支配する官僚が進歩的な行為を行った最後の時である。単に地勢学的な防衛の理由だけで介入したのだが、それは、帝国主義との「平和共存」を追求するスターリン主義者の見下げ果てた目的に反して進んだのである。
1930年代と第二次世界大戦に向かうなかで、レオン・トロツキーは、堕落したソビエト労働者国家の性格を分析し、プロレタリア政治革命の綱領を打ち出した。そして彼は、労働者階級が官僚を打倒しないならば、官僚が労働者国家を絞殺するだろうと述べた。トロツキーが予想したよりずっと長い時間を要したが、ソ連に対する軍事的経済的な帝国主義の包囲という圧力の下で、スターリニストの支配が最終的に解体されたことは、完璧にトロツキーの分析を確証した。「スターリン主義―革命の墓掘り人:ソ連労働者国家はいかにして絞殺されたか」(『スパルタシスト』14号、1993年1月)を読んでいない人々にこの文書を推薦する。
アフガニスタンから撤退した後に東ヨーロッパで反革命が起こった。1990年にポーランドでは、「連帯」の指導の下で資本主義反革命が起こった。また1990年にはドイツで資本主義的再統一があり、さらに1991年にはモスクワでエリツィンの資本主義を支持する反革命クーデターが起こった。これは、結局、アフガンに対する完全な援助の打ち切り、脆弱なアフガン経済と中央政府の滅亡に導いたのである。1992年にナジブラによって導かれたカブール政府は封建主義の反動家たちの手に落ちた。
現在アフガニスタンで行われている恐ろしいことは、20世紀全体に亘って突き出されてきた最も完全な選択の表現、しかも増大する鋭さと緊急性をもって突き出されている選択、つまり社会主義かバーバリズムかということである。社会的抑圧に反対する若い闘士は、もし新たな勝利を獲得するため前進したいならば、残存する十月革命の獲得物の破壊によって表わされた世界史的敗北を含めて、過去の闘争と敗北の教訓を研究し学習しなければならない。更に現在の大切な問題は中国の問題で、我々の立場を勉強すべきだと思う。我々は「中国を防衛せよ」と強調する。なぜならば、1949年の革命の以前には、女性の状況はとてもひどくて貧困であった。女性は財産のように売られ、夫の奴隷にされた。儒教主義は、女性が皇帝と父と夫に従属することを正当化していた。女性は足をしばられ、家に閉じ込められた。1949年の革命は、資本主義を粉砕し、労働者大衆を帝国主義の軛から解放し、女性を社会と経済の分野に結合できるような基盤を据えた。競合する帝国主義列強諸国が、資本主義搾取のために中国を再度獲得したがっている。もしこれが起きれば、世界の労働者と全ての被抑圧者にとって歴史的な敗北となり、財産を略奪するために主要な資本主義列強間でいっそう熾烈な奪い合いを誘発するだろう。1941年から45年の日米間による大平洋戦争は、主として、中国を搾取することをめぐる戦いだった。
中国の歪曲された労働者国家を日本の資本主義支配者たちから防衛することは、日本の労働者の直接的で当面の利益である。ソ連の反革命による破壊の結果起こったように、中国における資本主義復活は、日本のブルジョアジーと国際的な帝国主義者たちを大胆にさせ、自国の労働者階級やマイノリティに対する攻撃を増大させるだろう。それはまた、この世界をさらに一層危険な場所にしてしまうだろう。
我々国際共産主義者同盟は、日本と世界中で新たな十月革命のために闘っている。そして労働者革命を通じて、日本と米帝国主義を粉砕するという特別な任務を持っている。我々は、全ての被抑圧者の先頭に立つ労働者を権力へと導びく、そして女性に対する資本主義の抑圧と奴隷化が残虐な過去の遺物となる社会へと導く国際的なボルシェビキ党を鍛え打ち固めるために闘っている。女性は、革命運動の中で、最前線に立つだろう。そして女性の利益が労働者階級の展望なしに前進できないことを理解するだろう。労働運動は、女性の解放に向けた闘争を取り上げることなしに前進できないのである。
東ソビエトのイスラム女性に関して、1924年にトロツキーが述べた点を引用することで終えたい。「東洋の女性は、人生において、習慣において、創造性において最も無力化させられ、奴隷の中の奴隷状態に置かれている…彼女たちは、新たな経済的諸関係の要求において、自身の覆いを脱ぎ去ってしまえば、直ちにいかなる宗教的支えも必要のない自分自身を感じるだろう。彼女たちは、新しい思想や新しい意識を獲得したいという情熱を持つだろう。そして社会の中での新しい役割を理解するだろう。革命の思想にとって、共産主義の思想にとって、目覚めた女性労働者ほどすぐれた東洋の共産主義者、すぐれた闘士も存在しない。」
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